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「終わり」がくる、その日まで



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 悠花が神城穂高(かみしろ ほだか)と知り合ったのは大学に入学してすぐだった。
 彼は大学4年、悠花は1年。高校を卒業したばかりの悠花には、3つ上の成人した男は大人に見えて緊張した。何より穂高は目立つ。さらさらの黒い髪、穏やかな眼差し、高い身長に、育ちの良さが表れた物腰。神城穂高の名前は新入生にもすぐに広がった。人目を引かずにはいられない容貌も、その背後も。
 神城グループの御曹司ですでに在学中から経営に加わっており、ただの大学生のサークルを企業化していた。大学発の商品企画販売は行われていたものの、彼らはサービス分野にまでそれらを広げコンサルティングしていた。

 穂高は英語系サークルをまず、英会話教室を兼ね備えた学童保育に変えていった。近隣の小学校には両親が共働きの子どもたちが放課後を過ごすための学童保育が設置されている。子どもたちの宿題をさせたあとは遊びを見守る程度のもの。そこに英語系サークルの学生をボランティアとして派遣して気楽な英会話教室を開いた。小学校の英語授業が導入されるかもしれないという追い風もあってその提案はすぐに受け入れられた。
 学生は子どもに英語を教える勉強になる、子どもは英語に触れる機会になる。そのうちに、ある学校の学童保育時間すべてを英会話で過ごす(宿題も遊びも世話もすべて)という試みをやった結果、毎日の会話の成果がではじめた。
 どんなに英語を教えたいと思っても、やはり毎日話す環境にならなければすぐに忘れてしまう。日常的によく使うフレーズは施設内に張り出され、最初は英語だけの会話に戸惑っていた子どもたちは、柔軟に環境に適応していった。児童英検などの成績でその成果は立証され、学童保育対象者以外の希望者が増えた結果「放課後インクルージョン教育」として企業化された。

 次に穂高は対象を幼稚園にも広げ、幼稚園のお預かり時間を延長することで、保育園の待機児童解消に繋げる。さらに子どもだけに留まらずに、地域の高齢者との交流の場としてコーディネートすることで、英語だけでなく、経験豊かな高齢者による珠算や書道、華道、茶道などを学べる場として範囲を広げていった。
 こども、学生、高齢者、それらの世代を結び付け地域の活性化につなげる。
 穂高の活動は大学や近隣企業の協力を得ることができ、金銭的な融資を受けられるようになったことで大学ベンチャーとして拡大していった。
 学生にとってもアルバイトとして社会経験ができる。経済や商学の学生に起業や会計のサポートを依頼し、学生には実践の場を企業には格安でサービスが提供される。一定の売り上げを越えたベンチャーには「税金」という名目で大学に還元させ、それを担保に新たなベンチャーが設立されるというサイクルができあがった。

 悠花がこの大学を目指したのもそういう活動に興味を抱いたからだ。大学生活を過ごしながら社会に関わり、いずれ社会人になるための経験をすることができる。英語が得意だった悠花はそれを活かした仕事に就きたいと思っていたし、そのためにいろんなことを学びたいと思っていた。
 ベンチャー企業化したサークルは、ボランティアとしてもアルバイトとしても入るのは難しい。
 悠花の希望していたそこも英検やTOEICの成績だけでなく、実際の会話能力までテストされた。狭き門を突破したときは、大学に合格したときと同じぐらい嬉しかった。
 悠花にとって、それらを起ち上げた神城穂高は、それだけ遠い世界の人だった。

 見られるだけでいい、彼から学べるものがあれば学びたい、いろいろ教えてほしい。尊敬と憧れの対象だった穂高が、悠花のところに降りてくれるまでそう時間はかからなかった。
 「名月さん」から「悠花ちゃん」に呼び方が変わった。あまり大学には来ないと聞いていたのに、そこに行けば会える。「手伝ってくれる?」そう言われれば喜んで手伝いをした。何かと構ってもらえるのは、自分がまだ子どもっぽくて、妹みたいな感じだからだろうか。好きになるのは簡単すぎて、そんな感情を抱くことさえ恐れ多い気がして、穂高が縮めようとする距離を必死に遠ざけた。
 私なんかを相手にするわけがない。
 ただの後輩か妹。
 彼の気まぐれ。
 一緒にいられて嬉しかったのに、苦しくなった。初めて恋をする相手としては、穂高はあまりにも遠すぎて、分不相応だと言い聞かせるのが大変だった。
 偶然二人きりになってしまった花火大会の夜。「せっかくだからこのまま花火でも見に行こう」と誘われて、人の多さにびっくりして諦めた。かわりに連れてこられたのは夜の海。コンビニで花火を買って、二人で花火をした。
 線香花火をしながら穂高に「好きだ」と告げられて初めてのキスをした。
 悠花にとって何もかもが初めてで、心から好きになって、そして好きになってくれた人。

「悠花、好きだ」
「ずっとオレのそばにいて」
「悠花が一番大事だ」
「いつか、結婚しよう」

 穂高がくれた甘い言葉は、いつまでもずっと悠花の体にまとわりついている。
 穂高以外は愛せない、愛したくない。
 そう思えることさえ、幸せだった。



 ***



 悠花の仕事は秘書業務の中でも特に誰がやっても差し支えない雑用が多い。
 必要な書類の作成、コピー、会議資料の作成、保管、整理、文具や備品の点検・補充、来客へのお茶菓子や手土産の手配。株主総会や社史編纂に係る雑用、接待や出張の手配。
 雑務とはいえ多岐にわたるため一度にあれやこれやと頼まれると、すべてをこなすことができない。秘書事務担当は3人いたが、悠花が入社した当初はそれぞれがばらばらに仕事を引き受けてこなしていたために、ものすごく業務が混乱していた。

 悠花はすぐに業務の効率の悪さに気づいたけれど、きたばかりの契約社員の身で指摘できる事柄でもない。何よりみんな手を抜いているわけじゃなく、与えられた仕事をこなすのに精一杯なだけなのだ。そのうちにミスが重なりはじめて、悠花はおずおずと少しずつ業務のコーディネートを申し出た。
 本当なら各自担当制にして、その担当秘書からの仕事を中心にやるのが一番やりやすい。やっているうちに秘書によって何の仕事を事務に依頼しているかわかるからだ。秘書によっては自分ですべてを把握しておきたい人もいれば、雑務は全面的に任せたい人もいる。事務に頼む仕事はこれだと決めている人もいれば、手が回らなくなった時だけ依頼する人もいる。秘書の人たちに業務内容を統一してくださいとは言えないので、それならば自分たちが整理していくしかなかった。
 悠花は各秘書の仕事のやり方と、秘書事務の得手不得手などを把握してから、少しずつそれらを整理していった。

 そのうちに悠花が何も言わなくても、だんだんと仕事を一旦悠花に依頼するようになってくる。そのほうが効率もよくスムーズだと周囲が気づき始めたからだ。悠花は秘書事務全体に依頼されたことを他の担当者に割り振り、人手が必要なものは協力してみんなでやるように仕向けて行った。
 今は悠花が特に割り振らなくても、業務内容ごとにボックスに振り分けて依頼してもらうようにし、曖昧な業務はその他のボックスにいれてもらうという形に落ち着いている。
 みんなの机の拭き掃除やお茶の準備、新聞や雑誌の整理をしたあと、悠花はまずその他のボックスの仕事内容を把握する。場合によっては朝のミーティングで締め切りを確認したり質問したりしておき、極力秘書の人たちに余計な手間をかけさせないようにするのだ。
 仕事は多分楽しい。
 こういうコーディネート作業は悠花の性にあっているのだと思う。穂高のそばについて仕事をした数年間で身に着けたものは、悠花の中にきちんと残っていて、活かされている。
「名月さん、おはよう!申し訳ないんだけど、一番にこのメールの翻訳をお願いできる?今朝の会議に必要になったの」
「はい、わかりました」
 英文で書かれたメール本文と、添付資料を受け取り、悠花はすぐにパソコンで入力作業をはじめた。
 誰でもこなすことのできる雑用でも、結局は誰かがしなければならない。誰かの手助けになるような仕事であればどんな雑用でも大事なものだと思うのだ。
 誰かに必要とされる仕事。
 それが悠花の第一優先。
 「アキ」が何の仕事をしていて、悠花が手助けできるようなものかはわからない。でも可能なら彼のそばにいて、彼の生きる道を支えて歩いていきたいと思っている。もし彼が望んでくれるのであれば。
 手首で不意にきらめくブレスレットに悠花はいつも救われているから。



 ***



 お弁当をバッグにしまっていると、今日のお昼の電話番の秘書の人が「少し席をはずしてもいい?」と悠花に言ってきた。おそらく化粧室にでも行くのだろうと、悠花は快く引き受ける。身だしなみに気を遣わなければならない秘書の仕事は大変だなと彼女たちを見ていると思う。
 清潔感がありながら華やかさを忘れない髪型。華美過ぎないけれど丁寧な化粧。質の良いスーツを身に着け、指先にまで気を配る。立つ、座る、お辞儀をするといったすべての所作も他人に美しく見えるように意識しながら行う。
 穂高の傍で働いていた時は悠花も身だしなみには気を配った。化粧も服も髪型も、派手にならないように上品に見えるように、穂高に恥をかかせないように。穂高は「悠花はそのままでじゅうぶん綺麗だ」と笑っていたけれど、悠花より綺麗な女性はたくさんいた。
 今は人前に出ることがないとわかっているから、丁寧さは忘れずとも地味に装っている。髪はひとつに結んでまとめ、化粧も必要最低限。制服が支給されるため服装を気にしなくていいのも助かっている。不快感さえ与えなければむしろここで目立つ必要はない。

 食後のルイボスティーをゆっくり飲んでいると、灰色の雲に覆われた空から、白いものがふわりと舞っていた。もうすぐ春だというのに、時折こんな冬の名残を思わせるお天気になる。
 今年は雪が降る日が多い気がする。そして降るたびに悠花は「アキ」と見た雪を思い出す。バレンタインデーに初めて、昼間から会った。それまで夜しか会ったことはなくて、食事をしたのもクリスマスイブが最初だった。車で待ち合わせ場所にきた彼は悠花を温泉旅館に連れ出した。いきなりの一泊旅行。ホテルで夜を過ごし朝を迎えるのとはニュアンスが違って戸惑って、なのに非日常のその空間と時間とが自分たちの間を急激に変化させた。

 「会いたい」と思ってしまう理由を考えたくなかった。
 彼へ抱く気持ちをずっと認められなかった。

 穂高と別れてからも、忘れなければならないと思いながら忘れることが怖くて。
 忘れられるはずがないと思いながら、自分の気持ちが変わっていくことが怖くて。
 こうして変わるのであれば「アキ」への気持ちもまた変わるかもしれないと思うと怖くて。

 すとんと認めてしまったのはバレンタインデーのあの日。
 悠花は携帯を操作すると、メールを送る。

「あの日の雪を思い出します」

 たった一言。
 あの日から待ち合わせ以外のやりとりするようになった。
 「アキ」からくるメールに最初はどう返信したらいいか迷ったけれど、彼は悠花の返事を催促するようなメールは送ってこない。ただ日常の何気ない部分を切り取って、短い文にするだけ。
 彼もお昼休みなのだろうか。すぐに返事がきて「僕も思い出す」とだけ書かれてあった。
 ふわふわ、ふわふわと散っていく儚い雪。
 積もるほどではなく、きっとすぐに止んでしまいそうなこの雪を、悠花も彼もこの瞬間同じ気持ちで見ている。
 午後からも仕事が頑張れそうだと思ったとき「名月さんごめんね」と秘書の人が帰ってきた。同時に「名月さん、ちょっと」とも声がかけられる。
 低い男性の声に振り返って、悠花は少し身構えた。あまりここにはいない秘書部長補佐の肩書をもつ男がドアのそばに立っていた。

2015.07.07
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