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「終わり」がくる、その日まで



    4
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 工藤につかまれた腕をはずそうと振り上げると、大きな手が悠花の肩を抱いて背後にかばった。突然現れたその背中を驚いて見あげる。
「工藤さん、うちの名月に何か御用ですか?」
 会社と同じ冷静な桧垣の声に、悠花もそして工藤もびくりと震えた。桧垣がここにいることに驚くと同時に、こんな場面を見られたことが後ろめたい。
「桧垣さん……」
「名月は嫌がっているようです。ここでひいていただけないなら然るべき措置をとらせていただきますが」
 どうとでも捉えられそうな言葉を並べた桧垣を、工藤は悔しそうに見た。彼はバカじゃないから桧垣の意図を正確にくみ取っているはずだ。苦虫を噛みつぶしたような表情は一瞬で、彼は短く息を吐くと、仕方なさげに悠花を見た。
「名月ちゃん……また日を改めるよ」
 「そんなことをしても無駄だ」と言いたかったけれど、悠花は何も言えなかった。桧垣は工藤に対して威嚇しているようだが、同じ気配を背後の悠花にも伝えている。今日の昼休みに注意されたばかりでこんな状況になったうえに、よりによって桧垣本人に庇われているのだ。忠告を無駄にしたと思われていることは明らかだった。
 工藤の背中が見えなくなるのを確かめて、桧垣が悠花を振り返る。
「君はバカか!」
 態度も口調も冷たいけれど桧垣が声を荒げることはない。低い上にさらに聞いたことのない口調で怒鳴られ、悠花はますます身を縮めた。
「あの男には気をつけろと言ったばかりなのにこの様だ。社の下に工藤らしき男がいると噂になっていたから来てみれば、君はよりによってどうしてこんな人気のない道に向かう。あれでは、自ら誘っていると思われても仕方がない!」
「私は、会社の人に見られたくなかったから」
「それがバカだと言っている!君は警戒する割に無防備すぎる。あの男がどういうつもりで声をかけてきたか気づかなかったのか!」
 わかるわけがない。工藤の態度はいつも曖昧でいい加減で、昔から穂高を苛立たせていた。あんなふうに言われるとは思っていなかった。
「彼は……君の噂を知らないのか」
 少し涙目になった悠花に気づいて、桧垣が口調を和らげる。そう、自分たちがごたごたしているときに海外勤務で日本にいなかった工藤は、悠花がばらまかれた噂など耳にしていないのだろう。だからあんなことを言いだす。もし知っていれば、悠花を誘ったりはしない。
 たまに通り過ぎる通行人が、立ち尽くしたままの自分たちをいぶかしげに見て通り過ぎる。オフィスビルに挟まれた裏側の道路は、街灯はあるものの用がなければ踏み入ることのない道だ。
「知っていれば、あんなことは言わないと思います」
「……そういう意味じゃない。まあ、いい、ついでだから君を送る。彼も立場のある男だから今夜はこれ以上何かしてくることはないだろうが、寝覚めが悪い思いはしたくない」
 遠慮したくてたまらなかったが、これ以上桧垣を苛立たせるのも得策ではない。悠花は滲んだ涙を乱暴に拭うと「ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」と頭をさげた。




 工藤の行動も言葉も悠花には予想外で、よりによって穂高と別れた理由などを問われたせいで心がぐらぐら揺らぐ。緊張と動揺とで疲労がどっと押し寄せた気がして足取りが重い。ゆっくり歩く悠花を急き立てるでもなく桧垣もまたペースを合わせて歩いてくれた。
 悠花の勤める会社はちょうど二駅の真ん中に位置する。「アキ」に会うために使用する駅とは逆の駅を悠花は通勤で使用していた。いつもは表通りを歩くのに、二本ほど奥まった一方通行の道を今は歩いている。桧垣の言う通り人気はなく、悠花だって女性一人で歩く道でないことはわかっていた。けれど、駅へ向かう道でも会社の人と鉢合わせることのない道を選んだのは、暗闇よりも人目のほうが怖いと思っているからだ。今だって、桧垣と一緒のところを誰かに見られたらと思うと不安で、少しでも距離を置きたいぐらいだった。
 穂高は「オレを支えてほしい」と望んで、悠花にいろいろなことを学ばせた。海外留学にもついてきてほしいと言われ、元から希望していたこともあって素直に応じた。就職先も同じにして、新入社員であるにも関わらず、穂高に近い場所に配属された。コネではなくきちんと採用試験を受けて入社はしたものの、異例の人事に色眼鏡で見られるのは当然だ。有名すぎる穂高のそばにいる悠花への妬みだけでなく、そういう穂高の特別扱いも反感をかった原因だったと今ならわかる。
 けれどあの頃は穂高も悠花も必死だった。
 創業者一族でありながら、経営からはずされた父の代わりに、再び会社を支えるべく穂高は実績を積み努力を重ねた。穂高の周囲は敵と味方真っ二つにわかれていた上に、嘘と裏切りに満ちていた。孤軍奮闘していた穂高は絶対的な味方を欲していて、だから悠花をそばにおいた。悠花だって、辛酸を舐めさせられる穂高の苦しみを間近で見続けて、離れたほうがいいなど思わなかった。恋人同士だから一緒にいたいというのがなかったとは言わない。けれどそれ以上に穂高を支えたかっただけだ。
 若かったせいか、実力がありすぎたせいか「出る杭は打たれる」の諺どおり社会に出た穂高に味方をする人間は少なかった。そうして結果的に、会社の派閥争いに、当事者の穂高だけでなく悠花も巻き込まれ、根も葉もない噂をばらまかれた。
 噂という不確かなものがここまで力を持つのだと知らされた。悠花はただその波に飲まれるだけで抵抗もむなしく、穂高を一番弱らせた。
 一日で他人が自分を見る目が変わる。見る目が変われば、何気ない行動に対しても勘繰られる。善意は悪意にとられ、優しさは媚びと受け取られる。何をしても裏目に出るだけで、便乗した悪意がさらに悪循環をもたらした。
 穂高と別れて悠花が一番にしたことは装うことをやめることだった。人目につかないようにひたすら地味に、評価もされなければ貶されもしない位置にいること。社内の人間関係も深く築かず、注目も浴びず、空気のように存在すること。
 秘書事務としての仕事だけは、この会社に拾ってもらった身としても、給料をもらう身としてもできる限りのことをしてきたが、それは秘書部内のことで納まっている。
 黙ったまま歩きつづける悠花に桧垣は何も言わなかった。ただ歩調をゆるめては、時折振り返る程度で、それは社内での態度となんら変わりはない。
 桧垣は悠花の噂を知っている。
 ふっと悠花は思う。きっとその噂通りのことを今自分は「アキ」に対してやっているのかもしれない。第三者から見れば、名前も知らない男とセックスをするだけの関係はどんなふうにでもとらえられる。
 どんなふうにとられても悠花は構わない。会社での人間関係だけは気を付けるけれど、それ以外はどう思われてもいい。契約社員の身から飛び出せないのは、生活の糧でありながらその世界が甘いものでないことを知っているせいだ。誰と噂になろうと、辞めればすむ立場にいることが自分の身を守る術だと悠花は思っていた。

2015.07.22
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