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「終わり」がくる、その日まで



    5
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 試作のランチの食事を終えて、ランチボックスを重ねていると携帯が震える。
 世田智晃(せた ともあき)はメールの文面を確認して、空を見上げた。窓の外に景色が広がっていてもいつもと変わり映えのないものならば、改めて目を留めることはない。重みのある灰色の雲に埋もれていそうな白を探して、落ちてきた姿に笑みを漏らした。
「あの日の雪を思い出します」
 たったそれだけの文面にいろんな記憶が流れて、日常から隔離させる。見逃してしまうものを思い出させ、なおかつ心を熱く揺さぶる。彼女の存在は智晃にとっていつからか、救いのようなものに変化した。
「僕も思い出す」
 その一言だけを返信する。
 自分からもメールを送っていいか、用件以外でも構わないか、そんな中学生の恋愛のようなお伺いをたてて、彼女に許可を得た。
 あやふやすぎて、どうやって近づいていけばいいかわからない。彼女の抱える不安をなくしていけるかわからない。ささいなことを間違えれば怯えている彼女はすぐにでも逃げそうで、どうしても智晃は慎重にならざるを得なかった。
 そしてそんな許可を得ても、日常的にメールだけでも繋がっていたいという欲望を文にしたためるのは意外に難しかった。「会いたい」など素直に書けば彼女は戸惑うだけだろう。「今何をしている?」なんて情報でも集めているような書き方もできない。結果的に「今日はいい天気ですね」のようなものから始めざるを得ず「おいしい紅茶を飲みました」や「早く帰りたい」など他人から見れば一行日記ともとらえられかねないやり取りになってしまった。
 智晃のメールの文面に合わせてなのか、彼女からの返事もたった一言が多い。
 「お疲れ様です」だの「無理しないでください」だの「早く帰れるといいですね」だの。
 でも、それでも構わなかった。
 「バーに行きます」という用件だけのメールにすがって、もう二度とこんなメールは届かないのではないかと、会うことを彼女がいつやめてしまうかなどに悩んでいた頃に比べれば、繋がりを実感できるだけましだ。
「世田さん!これ片付けて構いませんか?」
「ああ」
 机の上のランチボックスがスタッフに回収された代わりに、コーヒーが置かれる。自分が飲むついでにいれた男はにやにやと智晃を見下ろしていた。
「彼女からのメールか?」
 休憩中の職場はざわついていて、自分たちの会話を聞き取る無粋な輩もいない。けれど、わざわざ指摘するこの男の嫌みは、いれられたコーヒーなみに苦い。まだ熱いコーヒーを一口飲むことで智晃は返事を濁す。仕事上のパートナーとしては信頼しているが、ことプライベートになると信頼は半減する。
「試作のランチボックスの改善点それぞれあげて、まとめて今日中にレポート作成してほしい」
 ランチボックスを片付けているスタッフに指示を出すと「えー、今日中ですか?」と声が上がったけれど無視した。言われて確かに、今週中に締め切りを提示した案件が重なっているかもしれないと思い出す。けれど智晃のスケジュールを調整し直そうと思えば、やはりスタッフの仕事のペースもあげてもらわざるを得ない。
 タブレット上でそれらを確認しようとすると、三住(みすみ)はやれやれという風情で切り出してきた。
「おまえに言われていた日程調整だけど……やっぱり出張をずらすのは無理だ。今回はあきらめろ」
「……そうか」
 三住は基本、智晃の要望を叶える方向で動いてくれる。「できない」「無理だ」という返答を智晃が嫌っているのをわかっているからだ。その男が「あきらめろ」と言うからには、今回は言う通りにするしかないだろう。
「クリスマスイブにバレンタインデー、あげくに今回はホワイトデー。おまえが女のためにイベントごとを大事にするとは思わなかったなあ」
 窓にもたれた三住はコーヒーを飲みながら「お、雪だ」と呟いている。イベントを大事にしているわけじゃない。それを口実にしないと会う理由が浮かばないのだ。
 三住には初めて「イブの夜の予定はいれるな」と依頼した。彼はものすごく嫌そうな表情をしたあと「イブ当日に会うなんて、女に期待させるだけだぞ」と釘をさしてきた。バレンタインデーの週末は絶対に余計なものはいれないでほしいと言ったときは「善処だけはしてやる」と言われたが、きちんと休みを確保してくれた。来月のホワイトデーを空けるよう頼んだ今回は「年度末で忙しい時期にプライベートの確保なんかできるか!」と怒鳴られた。
「無理か……。3月は他の週末も」
「予定表見ればわかるだろう。それでなくてもあの依頼のせいで、こっちは大変なんだぞ」
「…………」
「ウチの代表であるおまえが忙しいのぐらい恋人なら理解させろ」
「悪かった。コーヒーもありがとう」
 それ以上言われたくなくて智晃は三住を追い返した。彼はああ言ったが「恋人」だなんて本当は思っていないはずだ。また妙な女と付き合いやがってぐらいにしか考えていないだろう。
 そして多分、実際それは外から見ればあたりだ。
 相手は恋人とは言えない。
 智晃は彼女の本名を知らないし、彼女も智晃の本名を知らない。もちろん肩書も。
 名前も知らない相手と、月に数回会ってセックスをするだけ。言葉にすると陳腐な関係を、でも自分たちは少しずつゆっくりと深めてきた。
 出会いはきっとありきたりな場面。
 土曜日の夜にバーで遭遇しただけの女性。傷ついた風情の彼女に傘を差しだした雨の夜。おそらくあの日に彼女の奥底の望み通り、智晃の気まぐれな欲望のままに体を重ねていればよかったのだ。そうすればまた会えればいい、などという感情を抱かずにすんだ。「会えればいい」から「会いたい」に変わらずにすんだ。
「あの日の雪」
 智晃もそれはずっと覚えている。
 梅雨の時期から始まった曖昧な関係が変化したのは、クリスマスイブ。そして、先週末のバレンタインデー。バレンタインデーを口実に初めて昼間に会う約束をした。
 明るい光の下で見た彼女の姿は、いつもの仕事帰りのスーツ姿でもなく、結婚式帰りだった最初の夜やイブに見たドレス姿でもなく、紺色のレースのスカートにえりの大きなダウンコートのカジュアルな格好だった。さらりと降ろされた髪に、丁寧な化粧は夜とは異なる雰囲気を醸し出す。
 いつも薄暗い照明のもとで、どこか泣きそうな痛々しい姿を見せがちだったから、印象が一気に覆った。自分よりも年下だろうなとは思っていた。手に触れる肌は滑らかで瑞々しいし、綺麗な形の胸の弾力も、体のラインもまだどこか固さが残っていた。
 けれど、智晃が抱くたびに彼女は淫らさを垣間見せる。我慢しても堪え切れない喘ぎ声、羞恥に頬を染めながらも素直に足を開き、快楽を享受する。時折妖艶ささえ見せるからわからなかったけれど、昼間の姿を見てやはり「若い」と思った。
 そのときに智晃が抱いたのは、後ろめたさじゃない。むしろ花が開きかける前の、その花びらを大きく開かせたいという欲望。彼女は決して蕾ではなかった。開きそうで開かない、わずかな時間にだけ見せる儚さのまま放置された花に見えた。
 あのバレンタインデーの日、智晃はまた新たな彼女を知った。
 年相応の隠れた無邪気さを、なにも知らずに煽る奔放さを、何かの覚悟を秘めた強さを。  ずっと弱弱しく怯えて、逃げ出しそうだった。捕まえていないと閉じこもって、そのまま枯れそうで放っておけなかった。
 いろんな感情を彼女には抱かされてきた。
 気まぐれに雪を降らせる空がもどかしく視界にうつる。それは季節は違えど、彼女と初めて会った日の昼間の空と同じ色をしていた。

2015.07.27
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