back : next
「終わり」がくる、その日まで



    10
――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 段ボール箱から太いファイルを取り出し、簡易に設置されたスチール棚におさめていく。しばらくこの部屋を使用予定のコンサルティングの人からの要望で、集めたものだ。
 豪華さはないけれどシンプルで機能的な部屋になっているのではないかと思う。本人が来れば対応は悠花たち秘書部の人間ではなく、総務部の人たちがすることになっていた。
 空になった段ボールの蓋をしめて積み重ねると、悠花はその部屋をあとにした。年度末の忙しさはどこもかわらない。でも、雑然とした雰囲気は忙しさだけでなく、来週からやってくる部屋の使用者の存在も関係している。彼が来る前から噂はものすごい速度で広まり、普段は噂に疎い悠花の耳にも入ってくる。
 小さな個人経営のコンサルティング会社の代表、そしてこの会社の副社長の甥で親会社の会長の孫。もしかしたらいずれはグループ企業のトップとして戻る可能性があるのではと期待されているがために、今回の形になったのだという噂だった。御曹司の力量でもはかるつもりなのかもしれない。
 そんな男が適齢期の独身だとわかれば、色めき立つのも納得できる。
 だから悠花ができることは、このフロアに近づかないことと、今まで通り関わらないようにすることだけだ。
 会社の空気が浮ついているように悠花の心もほんの少し浮ついていた。
 空の段ボール箱をのせた台車を押しながら、左手首を動かした。袖口からさらりとのぞいたブレスレットが乾いた蛍光灯の下でもきらきら煌めく。予定通り、明日の便で日本に帰国するとメールが届いたのは昨夜のことだ。会うのはもう少し先になりそうだけれど、必ず時間を作ると。
 「アキ」と登録した名前を、変更できるまであと少し。「名前を教えてください」と伝えた後の数回のやり取りで、メールで名前を伝え合うかどうかも聞いた。「知りたいけど、ここまできたら会った時まで我慢する」と「できれば顔を見て直接伝え合いたい」と二人で気持ちを確認しあった。
 桜の花が咲くまではまだ時間が必要そうだけれど、悠花の心はもう十分蕾をふくらませ、咲き誇りたいと願っている。
 そう思えるようになったのは、怖がる悠花を辛抱強く彼がずっと待っていてくれたから。
「名月さん、あとをお願いしてもいい?」
 声をかけられて、悠花は頷いた。秘書部の人たちがいつもよりも華やかに装って集まっている。今日は他部署と合同での送別会だった。悠花は欠席なので、エレベーターに乗り込む彼女たちを見送る。入れ替わりに降りてきた桧垣に「遅れないで来てくださいね」と言うからには、彼も当然参加するのだろう。
 誰もいなくなった役員フロアはしんと静まり返る。残ったのは彼女たちがまとった香水の残り香と桧垣と悠花だけになった。副社長秘書である桧垣はあまりこのフロアにこない。だから悠花がまともに彼と顔をあわせたのも、工藤の件以来でほんの少し気まずかった。
 頭を下げると、悠花は自分も帰宅準備をする。机のうえにまとめた荷物を置くとブラインドをおろしに向かった。桧垣は部長の机に月曜日のミーティング用のファイルをそろえて置いている。
「あれから、工藤氏とは問題ないか」
「…………あれからお会いしていません。大丈夫です。あの時は……ありがとうございました」
 低すぎる桧垣の声は普通に質問されるだけなのに、人を委縮させるものを含む。女性受けする容貌なのにあまり騒がれないのは、寄せ付けない空気と態度のせいだと悠花は思う。年齢は「アキ」と同じぐらいな気がするのに、他人に与える印象は正反対だ。だからお礼を言う悠花の声も緊張する。
 シャーっとブラインドが下がる音で沈黙をごまかしたくて、悠花はそそくさと窓を渡り歩いた。
「あの……お任せして」
「ああ、戸締りは私がやっておく。気を付けて帰るように」
「はい、ありがとうございます。お先に失礼します」
 悠花に目もくれることなく仕事の残りを片付ける桧垣に頭だけさげて、悠花はフロアを後にした。
 今日は金曜日……「アキ」に会いたかったな、とぼんやり思う。だからといって一人でバーに行こうとは思わない。ただ駅ビルの本屋さんで、行楽用のお弁当雑誌でも探してついでに夕食をそこで済ませるのもいいかもしれない。春物の洋服も少しチェックしてみよう。見ているだけだった雑貨屋さんで大きめのお弁当箱も見てみようか。
 二人でお花見に行って、お弁当を食べて、たくさん名前を呼びあいたい。
 想像する未来は桜色をしていて、悠花はあたたかな陽だまりの中の風さえ吹いている気がした。




 ***




 お弁当を片付けて、いつものようにお茶を飲む。金曜日に向かった駅ビルで悠花はピクニック用のお弁当箱とレジャーシート、ついでに期間限定で発売されていた桜の茶葉を購入して、今日はそれを飲んでいた。茶葉からは桜の香りがして、こうしてお茶にしてもふんわり漂ってくる。フロアに誰もいない一人きりのランチタイムは、寂しさよりも自分一人でほっと息をつける空間になっていて気分転換になる。
 立ち読みだけで済ませるつもりだったのに見ているだけで楽しくて、結局お弁当雑誌を買ってしまった。お花見に行くときのお弁当は、チラシずしを薄焼き卵でつつもうか、それとも華やかに見えるのりまきがいいだろうか。卵焼きとから揚げははずせないけれど、甘めの卵焼きがいいか、からあげは醤油と塩どちらがいいか。彼の好みがなにかわからないから、今度会ったときに何が食べたいか聞くのもいいかもしれない。
 日本に無事帰ってきたというメールとともに、今週の土曜日に昼間から会う約束をした。駅で待ち合わせてドライブに行こうということになっている。そして初めて彼のマンションに泊まりに行く。短いメールのやりとりで、そこまで細かく決めさせられて驚いたけれど、彼としては、本当は平日のわずかな時間でも会いたいのだとメールで訴えてきた。
 あまりにも切実な気がして、悠花はつい電話番号をお教えしましょうか?とメールした。けれど彼は、声を聞いたら会いたいのを我慢できなくなるし、名前も言ってしまうから……それも我慢する。声を聞くのも、会うのも、名前を聞くのも、あなたを抱くのも我慢ばかりだから、会ったときはいろいろ覚悟をしておくように、という返事をしてきた。たかだか文字だけの羅列のメールなのに、彼らしさを感じて、悠花の胸は、移り変わる季節より早くほっこり暖かかった。
 新しい年度がはじまる春、新しい出会いもあって、関係だって新しくできる。二人の関係をはじめるにはぴったりの季節なのでは、と思うと笑みが自然に浮かんだ。
 聞きたいことがたくさんある。知ってほしいこともたくさんある。好きという感情を受け入れてから悠花の心の中は、急速にそれに呑まれた。気持ちを落ち着かせて切り替えなきゃと少しぬるくなったお茶を口にした。
「よかった!名月さんがいてくれて。申し訳ないが二人分のお茶の準備を頼む。副社長室に世田氏が挨拶に見えるから」
 エレベーターから飛び降りるようにして桧垣が言ってきた。めずらしく慌てた感じに、急に予定が変わったのだと把握する。悠花は慌ててテーブルの上を片付けた。
「わかりました」
 今日の午後からSコンサルティング代表である世田氏が来ることは悠花も知っていた。13:00に副社長室に挨拶に来る予定だったため、秘書部の人たちも誰がお茶出しをするかではしゃいでいたように思う。予定より30分も早いため、残念ながら悠花以外の人間はここにはいない。悠花は給湯室にかけこんで、ワゴン上に前もって準備していた蓋つきの茶器と急須にポットのお湯を注いで暖めた。ついでに桧垣のためにグラスに麦茶を注いでおく。
「休憩中に済まないな……お茶出しは私がやるから」
「あの、どうぞ」
 給湯室にやってきた桧垣に悠花はグラスをだした。桧垣は一瞬驚きながらも「ありがとう」と口にする。慌てていたからのどが渇いているかもしれないと思ったが、桧垣が一気に飲んでしまうのをみてよかったとほっとした。
「予定より早いですね」
「副社長の予定が急きょ変更になってね、世田氏が合わせてくれたようなんだが。もう少し早めに変更は伝えてもらいたかったよ」
 副社長には時々そういうところがある。今回の外部コンサルティングの導入だって、いろんな意見があったのにいつのまにか彼の言う通りになったらしい。スケジュールを急に変更したり、まったく関連のない会社との会合をもったり、強引にやりながら、そう見せない飄々とした部分がある。だからこそいつも冷静な桧垣が秘書としてついたのだろうし、厄介でしかない悠花の存在を受け入れてくれたのだろう。
「お茶出し、みなさん楽しみにしていたみたいですけど……」
「あー、まあ今回は仕方がないだろう」
 悠花がゆっくりと茶葉にお湯を注ぐと、ふわりといい香りがする。丁寧に茶器に注いで蓋をすると、ワゴンのうえのお盆にセットした。
 エレベーターの到着音が響いて、副社長の声が聞こえる。甥という間柄のせいかその声は嬉しそうで、桧垣は肩をすくめるとそちらに向かっていった。客人が入ったらワゴンをドアのところに置けば、あとは桧垣がタイミングをみて運ぶだろう。いつもなら静まり返るまで悠花は給湯室から出ないようにしている。
 けれど、聞こえた声に悠花は誘われるように、廊下に顔を出した。
 桧垣がドアを押さえ、副社長と言葉を交わす。部屋に入った副社長に続いて、客が桧垣に挨拶して部屋に入る姿が見えた。
 それはきっと時間にすればほんの一瞬。
 悠花はそのまま後ずさると、お茶を準備したワゴンにぶつかった。がちゃっと音がしてびくっと震える。幸い、揺れただけでこぼれなかったそれを悠花はぼんやり見た。翡翠色の蓋には一片の桜の花が描かれていた。春に使用する茶器。
 来客者の名前を覚えるのは基本中の基本。悠花は唇を震える指先で覆った。
「せ、た……ともあき……?」
 だから、だから?
「アキ」――――――!
 彼がどういう立場の人間であるかは事前に社内に広まっている。悠花でさえ知っている事実。
 やわらかな低い声、警戒心を抱かせない気さくな横顔、それは悠花が見知っている姿で。
 体の血と熱とが急激に下がって、悠花は膝から力が抜けると座り込んだ。ストッキング越しにタイルの冷たさがそのまま体に伝わって、小刻みに震える。
 襲い掛かる過去がフラッシュバックして、目の前が真っ暗になった。

 よりによって、また?また自分は好きになってはいけない人を好きになった?

 だって気を付けていた。時計も持ち物も上品ではあったけれど、そんなに高価すぎるものではなかった。彼ぐらいの年齢で、働いていれば身に着けておかしくないもの。わかりやすいブランドのマークはどの持ち物にもついていなかったし、車だって国産車の普通の物で、だから本当はあの時ほっとしたのだ。
 彼は普通のサラリーマンのはずだと……。
「世田会長の……副社長に、私……恩を仇で返すような真似」
「名月さん、お茶は……名月さんっ!!どうした?大丈夫か?」
 心臓の音がうるさい。視界には何も入らなくて世界がぐるぐるまわる。おなかの奥からせりあがってくるものがあって、悠花は口元を両手で覆った。悠花の嗚咽に気づいた桧垣が咄嗟にそばにあったごみ箱を差し出す。悠花はどうしても耐え切れずに、食べたものを吐き出した。
「少しだけ我慢できるか?副社長にちょっと伝えてくる」
「……うぶ、です!大丈夫です!だから……」
「席をはずすことを伝えるだけだから、騒ぎになるようなことはしない」
 こんなところを彼に見られたくはない、知られたくはない。悠花の心を占めるのはその感情だけで、そう思う自分の本音が見えて嫌になる。
 けれど体はついていかずに、悠花は再びせりあがるものを抑えきれずに口を開いた。桧垣がワゴンを外にだしていく直前に、上着を悠花の上にかけて姿を隠した。
「すぐ戻る!」
 頬を濡らすのは涙、吐き気だけがさっきから押し寄せてきて自分が何をすればいいかどうすればいいか考えられない。
 穂高を愛して……結果的に悠花はたくさん傷ついた。穂高を取り囲む世界が悠花に襲い掛かっただけで、穂高のせいじゃないことはわかっている。自分だけが傷つけられるなら、貶められるなら耐えることはできた。穂高がそばにいて支えてくれさえすれば、我慢できた。
 でも、家族にまで及んだ時、もうだめだと思ったのだ。
 自分が頑張れば頑張るほど、耐えれば耐えるほど傷つけられるのは悠花の家族で、穂高はそこまで守ることはできなかった。彼にだってまた優先的に守るべきものがあったのだから。
 だからもう絶対に、そういう世界の人とは関わりたくなかった。いや本来なら関わらずにいられる人たちのはずだ。

 知らなかったの、知らなかったの!何も知らなかったの!!

 でも周囲はそんな悠花の弁明を聞いたりはしない。またお金目当てで男を漁った、卑しい女だと噂が広がる。
 違う、私は違う!何を知らなくても、ただ、ただ好きになっただけ。

「それが罪なのよ!あなたが穂高を好きになったのが間違いなの!」

 奥底に閉じ込めていた言葉を思い出して悠花は声を殺して泣き崩れた。

2015.08.29
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
back  index  home  next