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「終わり」がくる、その日まで



    16
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 名前を教え合えば、関係はもっと深まるのだと思っていた。

 彼女は少しずつ距離を縮めてくれていて、会うたびに違う表情を見せてくれた。彼女が逃げ出さないように、ゆっくり見守って支えてきたつもりだったけれど、儚げな雰囲気はますます増したように思う。
 フレンチレストランに併設されたワインバーは遅めの時間帯のせいか客はほとんどいなかった。智晃はスポットライトに照らされる、綺麗に磨かれたワイングラスをぼんやり眺めながら、数日前のことを思い出していた。
 「名前を教え合ったら、恋をはじめよう」
 その言葉通りの未来はすんなり訪れそうにない。むしろあの日「会うのは今日で最後にしたい」という言葉を告げられた。なんとか撤回させたつもりだけれど、本当にそうしてくれるのか自信がない。
 あの日は結局送らせてももらえずに、仕方なくタクシーで帰した。智晃にできたことは、彼女の過去の言質をとって、一緒にお花見にいく約束を確保することだった。日時と待ち合わせ場所まで具体的に決めたけれど、体調不良なんかを理由にキャンセルされなければいいと穿ってしまうこと自体手遅れな気がしている。
「智」
 レストランフロアにいた最後の客を見送りに出ていた友人が、バーのほうに戻ってきて声をかけてくる。バーカウンターにいるのは智晃一人だ。だからオーナーである彼も自分の名前を呼んだのだろう。見れば他のスタッフも片付けのために席をはずしている。
「めずらしいな、おまえが平日に飲みにくるなんて」
 オーナーである彼はカウンターの中に戻ると「何か飲むか?」と聞いてきたけれど、智晃は首を左右に振った。
「人と会う約束をしているんだよ。来たら個室を使わせてもらうけど」
「ああ、言われた通り空けているよ。食事をしないなら一本あけろよな」
 智晃はしばし考えてこれぐらいならと、指をたてた。この男は智晃にワインリストなど見せたりはしない。予算に応じて智晃好みのワインを選んでくれる。彼は嬉しそうな表情を隠さずにセラーに向かっていった。
 ここは智晃が独立して一番最初にコンサルティングした友人の店だ。もちろん友人価格にさせられたが、二人で一緒にあれやこれや言いながら実践して、売り上げが数字となって見える喜びを味わわせてもらった。そして彼女と出会ったバーが、友人が出した二軒目の店だった。
 顔見知りであるバーのバーテンダーに彼女が来たら教えてほしいと智晃は頼んだ。気まぐれな依頼は、彼女がバーに来たとしても、会いに行くかどうかを選ぶのは自分だという余裕を持たせた。彼女はバーでの智晃との遭遇を偶然だと思っているかもしれないけれど、作為と自分の意志がそこにはある。
 そのことを友人が知っているかどうかは確かめていない。ただ晴音とのことを知っている彼は、智晃がこのバーに悠花を連れてきたとき会話に加わりはしなかったが、意味深に口角をあげた。そしてその夜に、彼女とは一線を越えたのだ。
 彼は多分智晃たちがあのあとどうするか想像はしていたと思う。心のどこかで止めてほしいと思って、結局そんな思惑ははずれて、流された。それでも女性をこの店に連れてきたのは初めてだった。
 友人が経営する、自分にとって思い入れのある場所。
 不確かな感情に揺れてはいても、あの時にはもう智晃にとって悠花は特別だったのだと思う。
 土曜日に彼女と別れてから、いろいろ考えた。考えた末に出てきた答えに躊躇ったのは一瞬だった。智晃の素性を知って距離を置こうとする理由を、本当なら彼女から聞き出したかった。でも、彼女の様子を見ていたらあの場面で問い詰めていいとは思えなかった。晴音も智晃の素性を知って距離を置こうとしたけれど、それは彼女自身の病弱であるという事情が主な理由だった。いや、智晃だからというよりも、本気で近づこうとする男と向き合うことを避けていたから、今思えば自分の素性は断るための体のいい理由づけだったのかもしれない。
 悠花は違う。
 彼女は怯えていた。智晃がそういう世界の人間だから、言えないことがある。そんなニュアンスを言外に滲ませた。そして調べようと思えば調べられる位置にいる人間だとわかった上で、「知れば嫌うだろう」と確信していた。本当なら素性調査などしたくはなかったけれど、彼女は決して言わないだろうことも、暗に調べればいいと言っていることも智晃にはわかった。
 だから調べてもらうことにしたのだ。
「悪い。プライベートなこと頼んで」
「久しぶりだよな。おまえが仕事に関することじゃなく個人のことを聞くなんて。オレも久しぶりだったからちょっと時間がかかったけど……」
 個室にうつって、友人がワインの準備をし終えて部屋を出るのを待って切り出す。三住は部屋を見廻してから、椅子に腰をおろした。
 四人掛けのテーブルのみの小さな個室は、外からの声も聞こえなければ当然中の声も漏れない。テーブルがつけられた壁が鏡になっているため、実際よりも広く感じる。天井からさがる小さなシャンデリアが男二人で使うにはもったいないほど上品に煌めいていた。
 三住は元々学生時代に調査事務所のような場所でバイトをしていて、そこでいろんなノウハウを培っていた。智晃が独立するときに、彼のそのノウハウとフットワークの軽さや情報の正確さなどが役立つと思って誘ったのが最初の経緯だ。会社を経営するにあたって市場調査は欠かせない。コンサルティングをするときにも重要なことなので、彼の手腕は如何なく発揮されている。
「身内の系列会社にコンサルティングしに行って、そこの社員を調べろなんてどういうつもりだよ」
 三住に依頼したときそうからかわれた。暗に女なんか漁らず仕事をしろと、智晃がいない穴埋めをさせられている彼の言葉には多少の嫌みが含まれていた。
 だから調査書を渡される時もにたにたされると思っていたのに、彼は厚い封筒を無言で差し出してくる。嫌な予感がしつつ封をあけると、まとめられたものが二冊にわかれていて、上にあった物からページをめくった。
 すでに三住が来る前に開けて、デキャンタージュされたワインはグラスにいれられている。友人には給仕は断ったので、呼ぶまで人が来ることはない。
 時間がたつほどに香りが開いてきてちょうどいいはずのワインを、三住は黙って口にしていた。
 一冊目は悠花のこれまでの経歴。家族構成や出身校、その時々の特記事項などが記されている。彼女は契約社員だと言っていた。就職活動がうまくいかなかったのか、気楽な位置にいたかったのか。仕事ぶりなどわからずとも、彼女と接していれば見えるものがある。だから契約社員だと聞いたとき小さな違和感があった。派手さのない落ち着いた雰囲気も、丁寧な受け答えも、印象として悪くはない。副社長である叔父に聞けばもっとわかる気もしたが、契約社員のことまで把握していないかもしれないし、からかわれかねないと聞く気にはなれなかった。
「留学経験があって、これだけの資格を持って、さらに最初の就職先は大手企業?」
 彼女が秘書部にいて事務員として働いていることだけはあの日教えてもらえた。この経歴なら秘書としても十分通用するだろうに、契約社員であるがゆえに秘書としては働けないのだろうか。一冊目は悠花のおおまかな経歴でごく普通の内容だった。疑問は抱いても、嫌うほどの要素はない。
「経歴はむしろかなりいい。ただ、高校まではおとなしく過ごしていたようだけど、大学デビューでもしたのか、以降の評判は正直よくない。大学での評判も就職してからも、金のある御曹司目当ての強かな女っていう印象だ」
「まさか……」
「二冊目があるだろう。そこに彼女が関わったトラブルが記載されている。まあそのせいで最初の就職先は自分から辞めたみたいだし、今の会社もコネでなんとか潜り込んだようだ。経歴はよくても素行のよくない女だ。最近は懲りたのかおとなしく過ごしているみたいだけど」
 三住の言葉の意味が飲み込めずに、とりあえず二冊目に目を通す。彼がそう評した意味がわかりかけた時点で、智晃は途中で読むのを止めた。何がなんだかわからなくて混乱する。智晃の知っている悠花と、調査書に書かれている悠花があまりにもかけ離れていて、他の人間の資料と間違っているのではないかとさえ思う。これが三住以外の人間からもたらされたものだったら、調査のしなおしを依頼しているか、支払いを拒否するか、しただろう。
 三住は何も知らない。なんの先入観もなく調べさせた結果がこれで、長年の彼との付き合いを信頼するなら、真実はこの文字の羅列にある。
 智晃は調査書をテーブルに置くと、グラスのワインを一気に飲み干した。三住が驚いて自分を見ている。今の感情のまま三住に「こんなのは嘘だ」と言うのは簡単だ。けれどそう断言できるほど智晃は悠花のことを知っているわけでもない。もしこれに自分との関係が追加されるとすれば、名前も知らない恋人でもない男とセックスをする女という内容になる。
「知られれば嫌われる、それが怖い」
 最後まで彼女はそう言って怯えていた。智晃に「嫌われる」ことが当然だとわかっていた口調。どうして自分の気持ちを信じてくれないのか、嫌いにならないという言葉を、一緒に乗り越えていこうと言った言葉を、彼女は頑なに受け入れなかった。
「つきまとわれて困っている相手……ってわけじゃないんだな」
「…………」
「智」
「おまえの調査結果を信用していないわけじゃない。否定する根拠も僕は持っていない。でも、僕が知っている彼女と、あまりにも違いすぎる。それさえも彼女の手管だと言われれば、もうどうしようもないけど」
 智晃はやや乱暴にデキャンタのワインをグラスに注ぐ。それなりのワインは豊かな香りを燻らせて、いつもなら深い味わいを楽しむはずだった。けれど今は水のように飲んでアルコール成分だけを摂取する。
「彼女のことを調べていきながら、正直気持ちが悪かった。彼女が、じゃない。あまりにもここまで彼女を非難する内容で溢れていることが、だ。彼女とトラブルのあった相手の名前はどんなに調べても出てこない。どう考えても、情報が制限されている。そうできる力のある人間と、彼女が関わったということだと思う」
「捏造されている?」
「すべてが嘘かどうかわからない。けれど、おまえが実際の彼女を知っていて、印象が異なるのなら、そういう可能性もあるってことだ」
 三住らしくなく、奥歯に物が挟まったような言い方が不自然で智晃は彼を見た。これらの情報の真偽はわからずとも、嘘であってほしいという願いはどうしても抱く。彼女を疑うわけではなくとも、調査結果にこういったことが明らかになってしまうほどの悪意を彼女が受けていることは事実だ。
「いいか、オレはこれが全部嘘かどうかなんてわからない。ただもしこれが本当なら、当然おまえは関わるべきじゃないと思うし、嘘なら嘘でやっぱり関わるべきじゃないと思う。それがオレが調査した結果の判断だ」
 この情報が嘘でも本当でも彼女に関わるべきではないと三住に断言されて、智晃はテーブルの上に置いていた手をぎゅっと握りしめた。ワイングラスの柄を握っていたことに気づいて、再び中身を飲み干す。
「彼女、実家もトラブルに巻き込まれて家族からも絶縁状態だ。それが本当に彼女の素行が悪くて起きたことなら自業自得といえるけど、力のある人間の怒りなり恨みなりかったせいなら……」
 三住は言葉を区切った。
「おまえも関わるべきじゃない」
「……なんでっ!!」
「なんで二冊あると思う?ごく普通に調査して得られるものが一冊目の情報だ。普通ならここまでしか手に入らない。おまえがどんな手段を用いてもいいと言ったから得られたのが二冊目の情報だ。
ただの恋人の素性調査なら、一冊目の情報が相手にはわたる。たとえ結婚相手だったとしても一般的な人間なら手に入れられるのはここまでだ。経歴に疑問を抱いても、本人に聞けば解決する程度のものだ。説明に多少の嘘が混じったとしても、どんな恋人同士にだって嘘がゼロとは言えない。
でも二冊目は違う。経歴に疑問を持ってさらに突っ込んだ調査をすると出てくる。本人に聞けばすむはずのことを、そういう類の人間が権力と金を使ってまで調べるから出てくる情報だ。もしこれが画策されたものなら、彼女はそういったトラブルを抱えている人間だということだ。関われば巻き込まれる可能性が高い。そしておまえはそういうリスクを背負っていい立場じゃない」
「だったら僕以外の誰が彼女に近づいたって、そうなるってことだろう!」
「そうだ!多分……誰が近づいても難しいだろう。でも、一般的な人間と関わるほうがおまえと関わるよりは、彼女のリスクは軽減される。だから、前の会社を辞めて以降の彼女に対する記載はない。おとなしく静かに過ごしていればいいってことだ。おまえみたいな人間と関わりさえしなければ……彼女は静かに過ごせるはずだ」
「…………」
「おまえはうちの会社の代表だ。おまえへの評価はそのまま会社の評価につながる。トラブルを抱えた人間との付き合いは、控えたほうがいい。それにリスクを負うのはおまえだけじゃない。おそらくおまえと関われば、彼女だって再び悪意にさらされる可能性がある。金目当て、御曹司目当て……そういう悪印象をすでに持たれているんだぞ。おまえとの関わりが明らかになれば、おまえがどう考えていようと、周囲は「やっぱり」と見るさ。この噂は本当だったんだって」
「僕が、世田の人間だからか……」
「そうだ、自分がどういう立場にいるかおまえが一番わかっているはずだろう」
 もしここが自分のテリトリーであったなら、智晃は感情の赴くまま目の前のテーブルを叩いただろう。けれど繊細なグラスとまだ残っているワインのデキャンタが、どこにいるかを悟らせる。智晃はぐっと言葉を飲み込んで、自分が関わってきた彼女の姿と調査書の内容との剥離を冷静に振り返った。彼女が本当にお金目当て、御曹司目当てなら、あれほど怯えて距離を置いたりはしない。それが同情と憐憫を引き出して騙す手段なら、手の込んだやり口だ。けれど三住の言う通り、真偽はともかく彼女が危うい立場にあることは事実だった。
「友人としてなら、この結果をどう考えるかはおまえの自由だと言える。でも仕事のパートナーとしては、自分の立場だけは考えて行動してくれとしか言えない。今夜は帰る」
 三住を引き留める気力もなく、智晃は一人残された部屋で、テーブルの上の二冊の調査書をぼんやり見つめた。紅いワインの影が黒くそこに落ちて、頭上を仰いだ上には煌めくシャンデリアが冷たい光を注いでいた。

2015.10.13
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