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「終わり」がくる、その日まで



    21
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 「こんなところで何をしているんだ」
 突然、背後から届いた低い声に悠花は振り返った。海辺に来るには……似つかわしくないスーツ姿の桧垣が、まぶしさに目を細めてネクタイを緩めながら歩いてくる。濃いグレーのスーツは熱を吸収していそうで、砂浜をえぐる足音はざっくざっくと潔い分、裾に砂があたっている。
 悠花は反射的に立ち上がって、条件反射で会社にいるときと同じように軽く頭をさげかけて、首を傾けた。
「桧垣さんこそ……お仕事だったんですか?」
 何と続けていいかわからずに、咄嗟に出てきたのがそのセリフだった。副社長と桧垣のスケジュールを思い出してみるけれど、さすがに週末の予定までは把握していない。悠花のそばまで来ると、「今日は暑いな」とつぶやきながら桧垣は海をながめる。
「少しだけ仕事でな。副社長と一緒にいたんだが、君を見かけて車を止めて……私だけ無理やり降ろされた」
「…………」
 なんの言葉も浮かばずに、ただ瞬きだけを繰り返す。桧垣は無然とした表情をしていて、不本意な状況であることだけは悠花にも理解できた。
「で、君はこんなところで一人で何をしているんだ。大きな荷物だな」
「友人と……お花見に行く予定だったんです。でも急用ができてキャンセルされてしまって」
「……花見に行く予定だったのに、海に来たのか?」
「……そういう気分だったので」
 桧垣の視線の先を追いかけて答えつつ、悠花自身もこの状況がよくわかっていなかった。
 いつもの桧垣は冷たい空気を最初から出していて、怯えながら彼の質問に答えている。今も会社ではないけれど、桧垣は面倒そうな口調を隠さない。副社長に無理やりここで降ろされたらしいが、悠花がいることに気付いたとしても、こうして声をかけなければよかったのに。それとも副社長に何か言われてきたのか。
 桧垣は本当に暑いのか、髪をかきあげるとおもむろにスーツの上着を脱いだ。そして悠花が座っていた岩の隣に腰をおろす。ごつごつした岩肌はスーツのズボンの生地を傷つけるのではと心配になるが、悠花はつられて自分も座った。ジャケットもそのまま放り投げそうだったので、さすがにそれは受け取って、簡単に畳むとトートバッグの上に置いた。
 桧垣は海を見たままなので、悠花もそちらに視線を向ける。押し寄せる波のうねりはゆるやかで、海の向こうの霞んだ景色もぼんやり見える。こんなところで桧垣に会うことも、彼がわざわざここまで降りてきて声をかけてきたのもあり得なさ過ぎて、岩場に座って二人で海をながめている現実についていけない。
「副社長に、何か言われたんですか?その……私のことで」
「金曜日の昼休み、副社長室の隣に私もいた」
 やわらかな風が悠花の髪を乱す。唇にはさまった髪を指でよけて耳にかける。副社長と言われて思い浮かぶのはそれだったし、桧垣が何か聞いている可能性はあったけれどまさかあの場にいたとは思わなかった。
「すみませんでした。お聞き苦しい話を聞かせてしまって」
 桧垣は悠花のことを知っている。副社長に頼まれて最初に悠花の対応をしたのは彼だった。雇用契約を交わす時も、業務の指導をする時も、問題を起こしたらすぐに辞めさせるようなニュアンスを滲ませていた。最初の頃は見張られていたし、試されてもいた。仕方がないことと受け止めて、いつからかそんな視線も感じなくなった。優しくも特別扱いも当然しないけれど、はなから疑うこともなくなったように思う。
 今回のことを副社長が桧垣に告げたとしても不思議ではない。
「わからないのか?副社長が私をあの場にいさせた意味が、君には」
 悠花は桧垣を見た。桧垣も悠花をじっと見る。悠花が正解を導くかどうか試す教師のようでも、逆に疑問を抱いている生徒のようにも見える。風で乱れた髪も、緩んだネクタイの下であけられた襟元のボタンも、会社では決して見ることのない隙が滲んでいる気がした。
「私が……迷惑をかけるようなことをしないか……」
 見張るため、と続けようとして、あからさますぎる言葉に詰まった。
「君が、世田智晃とうまくいかなかった場合、君を支えてほしいと副社長には頼まれた」
 桧垣の口から智晃の名前が出てうろたえる。聞いていたのであれば知っていて当然だけれど、直接的に言われると後ろめたくてたまらない。
「支える……?」
「男として、君を支えろと」
 一段と低くなった声には艶があった。悠花を見る目にも、いつもと違う色が宿っている。そういう空気を桧垣が悠花相手に出したことは一度もない。むしろ彼には嫌悪されているか呆れられているかどちらかだと思っていた。
「ふ、く社長が?」
「そうだ」
「……すみ、ません。なんだか桧垣さんには迷惑なことばかり……」
 悠花が謝ることなのかわからなかったが、申し訳なくてとっさに出てしまう。副社長の考えていることは悠花などにはわかるはずもない。どんな意図があるにせよ、桧垣には迷惑極まりない話であることは確かだ。
「君に謝られることじゃないが……私も正直面食らっている。君は、世田智晃と別れたいのか?」
 相変わらず、桧垣は濁した言い方をしない。金曜日の話を聞いていたのなら、彼がそう考えても仕方がないこととはいえ、答える義理はないはずだった。それを許さないのは、彼が見たこともない視線で悠花の答えを待っているせいだ。
「別れたほうが、いいとは思っています。でも……」
 別れたくないと思っている、別れたほうがいいと思っている。矛盾した感情を抱いていることも、「別れる」と口にするほどの関係かどうかもわからなくて、それ以上言えなかった。
 名前を教え合ったら恋をはじめよう、そう言われていた。でもはじまる前に、ヒビが入った。
「別れたほうが、いい、ね。君が世田智晃と別れるために必要なら、私が協力してもいい」
「協力?」
「そう、協力。君の恋人の振りをしてもいいし、なんなら婚約者でも。彼が君と別れざるを得ないようにしてあげよう」
 話しがどんどん飛躍して、悠花の頭は混乱する。智晃と別れるために桧垣に協力してもらうとか、副社長が桧垣に頼んだとか、意味が理解できない。
 けれど「恋人」とか「婚約者」とか桧垣の口から到底出そうにない単語に意識が奪われて、悠花もまた的外れな問いを返した。
「桧垣さんは……なんとも思っていない人と、振りとはいえ恋人とか婚約とかできるんですか?」
 副社長に頼まれたからと桧垣がそれを本気で受け取ることも、智晃と別れるための協力をそんな形で申し出ることもどうかしているとしか思えない。
「私は恋なんて、あやふやなものを信じてはいないからね。必要があるなら結婚だって考える。周囲はうるさいし、副社長は妙なことを頼んでくるし、君のことだ、世田氏と別れた後はずっと一人でいようとか考えているんだろう?
私もそういったことはどうでもいい人間だが、仕事の上でも結婚の必要性は感じている。
副社長に言われたことはきっかけにしかすぎない。君は結婚相手として考えた時、悪くない相手だと思っている」
 悠花の混乱に気づいているのかいないのか、桧垣が一気にたたみかけてくる。悠花も反射的に言葉を返した。
「桧垣さんは私の噂をご存じなんでしょう!いくら関心がなくても、結婚は慎重に考えてください。私は……結婚相手としてはふさわしくありません。第一好きでもない相手と結婚なんて……」
「好きな相手である必要なんかない。好きなんてあやふやで根拠のない感情を拠り所に、将来的な契約を交わす方がリスクは高い。私にとって、結婚は契約だ。契約相手に必要なのは信頼だけだ。そして信頼があれば、愛情は育める」
「しん、らい?」
「恋が落ちるものなら愛は育むものだ。信頼できる相手なら、契約を交わした後でも愛を育むことができる。そういう意味では私は君を信頼しているよ。私は君を見張ってきたんだ。どんな人間かはわかっている。それに、契約を交わすなら……私はどんなことからも君を守ると約束する。それぐらいの力は私も持っている」
 桧垣の持論は独特過ぎて、何について話しているのかどうしてこんな流れになったのか、そもそもなぜ桧垣と「恋愛談義」のようなものを交わしているのかわからずに、ますます悠花の頭は混乱していた。
 桧垣は悠花を好きなわけじゃない。それはわかっている。でも信頼はしているという。だから結婚してもいいと。
 悠花が智晃と別れるための手助けを必要とするなら手を貸すと、彼は言っているのだ。
 悠花は苦笑しながら首を左右に振った。あまりにも突拍子がなくてついていけないのに、好きでなくても結婚できると言われているのに心がざわめく。
 そんなことを冗談で言う相手でないとわかっているから。
 悠花の噂を知っていてずっと見てきた桧垣が、冷静で私情をはさまない彼が……信頼しているなんて言葉を使うから。
 疑われて嫌われていると思っていた相手に、そんなふうに言ってもらえるなんて思ってもみなかったから。
 悠花は岩から立ち上がると、桧垣と向かい合って頭をさげた。
「大丈夫です。桧垣さんにご面倒をおかけするようなことにはなりません。副社長にも私の方から不要であるとお伝えしておきます。巻き込んだ形になってしまって、本当に申し訳ありません」
 そう、そこまでする必要などない。智晃は悠花の過去を知り、急用だと今日の予定をキャンセルした。いや本当に急用だったとしても、彼はきっと迷っているはずだ。彼が悠花を見限る可能性は高い。
「それなら、彼ともう二度と会わずにいられるのか?彼に会いたいと言われても断れるのか?」
「……今日、キャンセルされたのは彼にです。もうきっと、連絡はこないと思います。話をお聞きになっていたのなら、彼が私のことを知ったこと、ご存じなんですよね?桧垣さんもご存じだと思います。だから……」
「君は……自分が惹かれた相手が、そんな男かどうか見極めることもできないのか?噂を知ったぐらいで、嫌う男だと本当に思っているのか?」
 切り返されて悠花はぐっと弱い部分を抉られた気分になった。
 彼は悠花のことを調査して、そしてすべてを知ってしまった。知れば嫌われるだろう不安も、あんな調査書の内容を簡単に信じる人ではないという期待も両方を抱えている。自分の口から真実を語る勇気がなかったことも事実だし、そんな噂を知って嫌ってほしいという気持ちと同じぐらい信じてほしいという願望もきっとあった。
 寄せるさざ波だけが響いていた世界に、不似合いなバイブの音が聞こえて、悠花は自分のバッグを見た。桧垣が確認するように目で促す。悠花は静まったそれにおずおずと手を伸ばした。メール画面を見て、そして無性に泣きたくなった。
『今、どこにいる?会いたい。電話してほしい』
 いつも落ち着いている彼らしくない性急な、でも気持ちが強く伝わるメール。そして続く文面に初めて知らされた携帯の番号。悠花の指は震える。
 本当に急用だった?用事は終わった?だからメールをしてきた?
 悠花の噂を知っているのに、それでも会いたいと本当に思ってくれているのか?
 たとえ彼が本気で「会いたい」と思っているとしても、望ましい答えが何かは、彼の素性を知った時から明確に出ている。
 あとは強い気持ちでそれを実行するだけ。
 穂高のときだって、答えは早々に出ていた。それを彼に突きつけるまでに時間はかかり、そう決めてからも迷い後悔し何度も泣いた。それと同じことをすればいい。一度できたのだから、これからだって何度でもできる。
 終わりにしたい。もう会わない。そうメールを返して……関係を清算する。
 彼と別れる方法など、桧垣に頼らずとも簡単だ。
 桧垣は悠花の様子を見ただけで誰からメールがきたのか気づいているようだった。じっと悠花がどう行動するか観察している。
 桧垣の言った内容は突拍子もないことで、冗談を言いそうにないから余計に悠花を困惑させた。それでも「信頼している」という言葉は胸にぽっと暖かいものを灯した。桧垣は悠花の悪い噂も知っていて、そのうえでこれまでの仕事ぶりを評価して「信頼」してくれたのだとしたら、厳しい彼からの言葉だからこそ重みがあった。
「桧垣さん……メールなんて無視しろって、電話するなって命令してください」
 桧垣の言葉に踊らされて頼る必要など本当はない。別れる方法なんて簡単なはずなのに、悠花は桧垣を見つめた。
 他力本願だと馬鹿にされようと、呆れられようと、ここに桧垣がいるのはきっとそういう意味だ。彼なら悠花の間違った行動を止めてくれる。
「「会いたい」って言われたら断れません!「会わないほうがいい」ってわかっていても、自分では止められないんです。だから桧垣さんが止めてください!私に……「もうやめろ」って「会うな」って言ってください!!」
 それでも携帯を胸に抱いていると震えてくる。「迎えにいくから今どこにいるか教えてほしい」「どうしても会いたい」そう続く内容に、体も震えだす。悠花の返事など待たずに送られてくるそれに彼の痛いほどの気持ちが伝わってきて、同じ気持ちを伝えたいという欲が膨れあがる。
「「会いたい」と「会わないほうがいい」を同列に扱うのが間違いなんだ。「会いたい」か「会いたくない」か選ぶのはどっちかだ。君が「会いたい」のなら会えばいい。「会いたくない」と思うまで何度も」
「いつか終わりがくるってわかっているんです!だったら今終わらせた方がいいでしょう!」
「あたりまえだろう」
 悠花の動揺とは裏腹に、静かに桧垣は答えて立ち上がる。涙でぼやけそうになる悠花の視界にうつるのは会社と変わらない、どこまでも冷静な桧垣の姿。
「終わりのない現象なんて世の中にはないんだ。すべてのものには「終わり」がある。君と私の「命」だっていつかは終わるんだ。命の終わりがくることをわかっているのに、君は今命を終わらせることができるのか?「終わり」がくるから無駄なんじゃない。「終わり」があるとわかっているから、どう「終わらせるか」考えて懸命に生きるんだろう。
君と彼との関係がいつか「終わる」のなら「終わる」まであがけばいい。無理に終わらせなくったって、いずれは「終わる」。早いか遅いかの違いだけだ。
私はむしろ「終わらない」ほうが気持ち悪い。命も愛も永遠じゃないから……存在する間大事にしたいんだろう?
君も「会いたい」と思ううちは会えばいい。「会いたくない」と思うまでとことん会えば、いつか「会いたくない」と思うときがくるかもしれない。
いいか。「終わり」はこの世のすべてに平等にある。「終わる」ときまで、彼に会えばいいんだ。だから命令してほしいなら、彼に電話するように命令する」
「…………」
 いつも「終わり」が来ることに怯えていた。
 「終わる」なら早く終わらせた方がいいと思っていた。
 桧垣の言った内容は、悠花には極論すぎたけれど、怖がっていた自分がバカみたいに思えてくる。
 悠花は電話番号ののった画面と桧垣とを見比べる。仕事と変わらない「さっさとしろ」という視線に恋愛でさえ桧垣の手にかかれば業務の一環のように思えてくる。取引先に電話しろと言われている気にもなって、泣きそうになっているのに笑いたくなった。
 「会いたい」と「会わないほうがいい」は同列じゃない。
 比較できない。
 「会いたくない」と思うまで会い続けていれば……「終わり」はいつか必ずやってくる。
 命と同じように「終わり」が来るのなら、それまであがいて生きていくしかない。
「「終わり」があるから「始まり」がある。彼との関係が終わったら……次に君がはじめるのは私との関係だ。私は「恋愛」なんていう無駄なことはするつもりがないから「結婚」という契約を君とは交わす。私との契約を交わしたくなければ……彼との関係を終わらせなければいい」
 桧垣はクールな仮面を脱ぎ捨てて、にやりと笑う。
「オレと結婚したくなきゃ、世田智晃とずっと続けようとするだろう?電話しろよ、ほら」
 一人称も口調も変えて桧垣は悠花に一歩近づいた。手がそっと伸びて悠花の肩を大きな手がつつむと引き寄せた。ありえないほど近い距離に、桧垣の体温とわずかに汗ばんだ匂いとともにかすかな香りが漂って、無意識に見上げてしまう。
 桧垣も目を細めて悠花を見下ろす。
「電話、しろ」
 強く、短く耳元でささやかれて悠花はボタンを押した。片方の耳に携帯、もう片方の耳に桧垣の息遣いを感じながら、すぐに繋がった電話に悠花は「もしもし」と口にした。
 相手が出たのを確かめて桧垣が悠花から離れる。離れていく瞬間にだけ、自分の誤解かと思うほどかすかな熱が額をかする。
「よく、できたな……」
 出来の悪い生徒を褒める教師のような顔をして、桧垣はすぐに悠花に背を向けると、ジャケットを腕にして去って行った。
「悠花?ごめん!約束の時間に行けなくて。今どこにいる?できればあなたに会いたい!迎えに行くからどこにいるか教えて。会いたいんだ、悠花!」
 電話を通すと、こんな声なんだと悠花は泣きたくてたまらなくなる。
 桧垣の言葉も行動の意図も正確に把握できていなくても、彼が背中を押してくれたことだけはわかる。だから心のままに素直に悠花は口にする。

 「終わり」は必ずくる。だったら終わるその日まで……彼のそばにいよう。

 傷ついても苦しんでも、彼を傷つけても苦しめても。

「智晃さ……んっ!私も、私も会いたい!」

 穂高との指輪を捨てたこの海で……いつかまた左手首のブレスレットを捨てる日がくるかもしれない。これからもきっと今日のように、捨てようと海にくるたびに、引き戻されていくのだろう。
 あの日のような気持ちで捨てられるその日まで、「終わり」がくるその日まで、「会いたい」気持ちのまま会いに行く。
 彼に初めて会った日から……抱えてきたこの気持ちのままに。

2015.11.17
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