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「終わり」がくる、その日まで



    26
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 愛し方にマニュアルがあればいい。
 どうすれば大事な人を傷つけることなく大切にすることができるのか、どうするのが「愛する」ということになるのか。
 必要な資料はある程度読み込んだ。あとは現状を把握しながら課題分析にはいり、この会社も今週いっぱいの滞在になる。目標設定に向けて具体的な課題と数字を出していくのは自社に戻ってから資料を作成し、来週あたりにはさっさとプレゼンして今後は定期的にチェックしていく方法をとったほうがいい。頭の中でいろいろシュミレーションしながら、悠花との関係もこんなふうに取り組めればスムーズにいくのだろうかと不意に思った。
 日曜日は何事もなかったかのように過ごし、午後の早い時間に彼女を部屋まで送った。智晃にできたのは「また連絡する」といったありきたりな言葉を言うだけで、彼女はやわらかな笑みを浮かべて頷いた。
 胸がツキンと痛んだのは、初めて会った頃の彼女をどことなく思い出したせいだ。
 顔をあげて時間を確かめたのとノックの音が響いたのは同時だった。
 時間通りに訪れた人物に入出を許可して、智晃は椅子から立ち上がった。今日は副社長秘書の桧垣秋が各部署を案内してくれることになっていた。
 近寄りがたく厳しい空気をまとう男はあまり智晃の周囲にいないタイプの人間だ。けれど柔和でありながらくせのある副社長付なのだから、仕事はできるに違いない。あの叔父は優秀な人間を見抜く目には長けている。
 桧垣に案内されながら仕事をしている人間の様子や状況を智晃は見て回った。昨日は別の人間に他の部署を案内されたが、その時にしたのと同じ質問を智晃はあえてしてみた。
「あなたからご覧になって、自社の問題点はなんだと思われますか?」
 桧垣は「それがおまえの仕事だろう」みたいな視線を投げてきた気がしたが、智晃もあえて聞いているのだ、さらりと受け流す。
「まあいろいろありますが……人件費削減のために契約社員を雇っていることでしょうか。人材をせっかく育てても、すぐに人がいれかわってしまう。新たな風が入ると言えば耳触りもよく聞こえますが、離職率は高いようです。それにどんなに優秀でも契約社員であるためにその能力を活かせずにいます。
人材が流動的すぎて、横のつながりも縦のつながりも途切れがちです。社員の意識もばらばらで統一性に欠けロスも多い。まあこれだけ人数が多ければ……仕方ないかもしれませんが」
「ありがとうございました」
「お役に立てず申し訳ありません」
 桧垣は口角をあげてそう言った。あたりさわりのない、誰でも思い浮かぶようなことを並び立てて、この場をかわしたように感じて智晃はそれ以上追及しなかった。何より彼の隣は居心地が悪い。桧垣が部署をまわるのは珍しいのか、昨日案内されたときよりも視線がやけにからんでくる。女子社員の視線やひそひそとした仕草が自分たちに向けられているのは明らかだった。
 桧垣の見た目は確かに目立つし、智晃自身もどうしても注目は浴びてしまう。今週いっぱいでいなくなるとわかっているせいか、あからさまな誘いもあった。
「秘書部もご覧になりますか?」
 桧垣はそれとなく彼女たちの視線を制してから、そう言ってきた。ここで秘書部だけはずすのもおかしい気がして「お願いします」と答える。悠花はいるだろうかと思ってしまうのは、あの地下駐車場での接触以来ここで会う機会がなかったせいだ。あの接触がなければ、きっと智晃は悠花がこの会社に勤めていることなど知らずにこの数週間を終えたに違いない。
 エレベーターに乗ると智晃はふと思い出して桧垣に聞いた。
「秘書部に……資料作りの上手な方がいますね。役員用の資料は特別にわかりやすく配慮されていたようですが」
 この会社にはある程度マニュアルができあがっているため、それにそった資料を作成していることが多い。だから独特の書式で整えられた資料は特に印象に残っていた。文章の羅列ではなく重点を箇条書きにし、さらにグラフや文字は見やすい大きさと色に、後半に添付された補助資料の中に重要なものがあれば、それもレイアウトに組み込んでいた。
「役員の中には、視力の悪い方もいらっしゃいますし、お忙しい方が多く手元に届く資料も膨大です。パソコンでは目が疲れると、紙の資料を希望する方もいてそのために作成したようです。契約社員ですが優秀なので……正社員の打診も行ったようですが、断られました」
 秘書部にはまばらに人がいて、自分たちを見て軽く頭をさげてきた。見渡せば端の方の席に悠花の姿が見える。彼女は智晃に気が付いているのかいないのか顔をあげようとはせずに、パソコンに向かっていた。いつも智晃の前ではおろしていることが多い髪は今はひとつに結んでいる。会社の制服を着て、薄化粧をしている姿はおとなしすぎて、知らなければ見逃しそうなほど地味だ。
 智晃が知っている彼女は、髪もふわりとまいて上品なメイクで、服装もどこかひとつ華やかさを感じさせていた。秘書部の事務で制服姿とはいえ、華やかな装いができない女性ではない。あえてああいう格好をして、目立たぬようにひっそりと働いているのであれば、そうすることで身を守っているのだろう。根も葉もない噂でどれだけ彼女が傷つけられてきたかわかる気がした。
「この後は副社長がお呼びですのでこちらへ」
 会う予定は入っていなかったはずだと思ったものの、あの人の気まぐれはよくわかっているので智晃は後ろ髪引かれる思いを抱きながら、秘書部を出た。
 彼女は決して顔をあげようとはせず、視線が交わることもなかった。




 ***




 桧垣があけた扉に素直に足を進めた。黒い応接セットの先の大きなデスクにはこの部屋の主は見当たらない。智晃は扉を閉める桧垣を振り返って、その表情で彼の意図を把握する。仕事中にも関わらず、嘘をついてまで誰もいない副社長室に智晃を誘い込んでおきながら、悪びれた風もない。
「僕に何か?」
「副社長は会議中です。あなたにお聞きしたいことがあってこちらにお呼びしました。申し訳ありません」
 謝罪の言葉は丁寧だけれど、心がこもっていないことは伝わってくる。聞いてやる必要もないと突っぱねることもできたのに続く言葉が智晃をその場に留まらせた。
「名月悠花さんのことでお話があります」
 副社長付の秘書である桧垣が、二人きりで話す時間と場所を確保してまで言いたいことが彼女の件だと知って軽く驚く。桧垣は智晃に椅子に座るように促したけれど、智晃は首を左右に振って断った。向かい合って座って話すような雰囲気ではない。扉の傍に立ち尽くす桧垣に智晃は体を向けて相対した。
「副社長からはいろいろお聞きしています。彼女は事情があって副社長がうちにひっぱってきました。トラブルに巻き込まれないよう配慮もしてきた。あなたとのお付き合いがプラスに働くのであれば見守るつもりでした……」
 桧垣の言葉を聞きながら智晃は舌打ちしたくなった。叔父が関わっていると気が付いてから、彼が自分と悠花との関係をどのような目で見ているか、気になりながらもあえて彼自身と話はしなかった。こちらが言わない限り、彼も口には出さないだろうと思っていたのに、こんな形で追い詰めてくるなど想像もしない。
「支えられないのなら手をひいてください」
 案の定、表面だけの笑みを浮かべていた男は、その瞬間仮面をはずす。冷たく射抜いてくる目に智晃はそらさずに向き合った。隙を見せれば追い詰められる。そんな空気を桧垣は遠慮なく放出してくる。
 その意図を奥底の真意を見誤るわけにはいかない。
「あなたには関係のないことかと」
「あなたが目に留めた……資料作りの上手な契約社員は彼女のことですよ」
 さらりと話題を変えられて訝しく思いながら、あれが本当に彼女の作成したものなら……仕事ぶりの優秀さもそれでも正社員の打診を断ったという理由も想像できた。
「あなたもお気づきのように彼女は優秀です。ばらばらだった秘書部の業務も自然に流れをつくって効率化を図った。目立たず真面目に懸命に働いている。正社員の打診は妥当です。しかし先日、彼女は次の契約更新はしないと言ってきた。聞けば次の就職先が決まっているわけでも結婚するわけでもない。あなたのせいじゃないんですか?」
「…………」
「彼女の素性は御存じなんでしょう?契約社員で居続けたのは、この会社に迷惑をかけたくないという彼女の心情からであって、副社長も秘書部長も彼女のことは評価している。実家に頼れない状況で仕事は彼女にとって生活の糧であり、トラブルもないのだから辞める必要などどこにもない。
むしろ彼女は再就職の厳しさをわかっているはずだ。先の見通しも立っていないのに契約更新はしないと自分から言ってきたのは……あなたとの関わりを断つためでは?」
 智晃がここにいるのは今週いっぱいだけれど、今後も定期的に関わっていくのは確かだ。けれど桧垣が言いたいのはおそらくそういうことではない。ここが世田の関連会社であり、自分がその関係者なせいだろう。真意はどうであれ、悠花が智晃との関係を断ちたがっているのは感じている。まるでその手始めのような気もすれば、こんな男の言うことに振り回されるわけにはいかないとも思う。
「こんなことで優秀な社員を手放すのは惜しい。中途半端な感情で関わって、彼女を傷つけてこれ以上仕事まで奪う権利はないでしょう?あなただって、彼女にこだわる必要などどこにもない。あなたさえ関わらなければ……彼女が契約更新を拒む理由もなくなるのでは?」
 智晃は腹の底からわけのわからない靄のようなものが溢れ出るのを必死で抑えた。優秀な社員を辞めさせたくないからという表向きの理由だけで、こんなことを言っているわけではないだろうに、静かに挑発を受けている気分になる。
「彼女が……契約更新しない理由を僕は知りません。僕のせいなのかそうでないのかは、直接彼女に聞きます。それに、たとえそれが僕のせいだとしても……直接彼女から拒まれない限り手を引くことはありません。あなたに言われることじゃない」
 智晃は桧垣に近づくと、ドアノブに手をかけた。もうこれ以上この男と話をする必要はないと思えた。悠花に拒まれない限りと口にしながら、もうすでに何度も拒まれているじゃないかと心の中で自嘲する。
「私は、副社長に公私ともに彼女を支えてほしいと言われました。あなたが彼女を苦しめ続けるなら、無理やりにでもあなたから引き離します」
 桧垣の言葉に隠されたいろんな意図に、智晃は目の前のドアを叩きつけたくなった。桧垣の淡々とした口調と、どこか事務的な言葉の羅列の奥に燻るものが見える。桧垣の言葉の向こうに叔父の姿が見えて、味方ではあり得ないことを示唆する。
「あなたの手を煩わせたりはしません」
 爆発しそうな感情を極限まで抑えて、智晃は静かに言い放つとドアをあけた。目の前の廊下の明るさがやけに眩しくて、同じフロアにいるはずの悠花との距離はどんどん遠のいていく錯覚に陥る。
 この会社から逃げることが自分から逃げることにつながるのか……。たとえ逃げようとしても逃さなければいい。この会社を辞めることは逆にあんな男のそばから離せて良いはずだ。
 牽制してきたのか嗾けられたのかわからないけれど、叔父の思惑通りにはさせないとだけ強く誓った。

2015.12.18
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