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「終わり」がくる、その日まで



    28
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 「会食、じゃなかったんですか?」
 智晃は走ってきたかのように上着を脱ぐと、めずらしく首元に手をやり、すかさずネクタイを緩めた。バーテンダーもその様子を見て「ビールになさいますか?シャンパンになさいますか?」と笑みながら聞いている。
 「シャンパン」とだけ答えると、気を利かせて先に出された水のグラスを一気に呷っていた。
「役目はきちんと終えたよ。これ以上付き合う必要はなさそうだったから抜けてきた。よかった、まだいてくれて」
 隣に座る距離が近い。このバーで彼がここまで親しさを露わにしたことはなかった。だから余計に意識してしまうのかもしれない。ふんわり立ち上るのは大好きな森林の香り、スツールに座った膝がつきそうなほど近い距離、親しげな口調と態度。智晃は目を細めて悠花を見つめる。甘くゆらめいて見えるのは、照明が暗いせいか。
 シャンパンが届いて智晃がグラスをかかげる。悠花も「お疲れ様です」と言って残り少ないグラスを手にした。
「智さん……僕はご報告していただいていい立場だと思うのですが」
 バーテンダーの彼がいたずらっぽい口調で智晃に話しかけた。
「君に話すとあいつに筒抜けになりそうだからね。でも、まあこういうことなので、今後もよろしくお願いします」
「かしこまりました」
 親しげな彼らの様子に悠花は二人を見た。バーテンダーは頭を下げるだけで何も言わずに他の客のところへ行ってしまう。智晃もにっこり笑うだけだったので、悠花はこの場で特に何かを聞いたりはしなかった。
 来ることを知らせていたとはいえ、バーでこうして会えただけで、来てくれたこと自体がやっぱり嬉しいと感じる。
 悠花は、素直にそう思う自分に呆れた。
 やっぱり自分の意志で未来を決めることは難しい。
 きっとその意思が前向きなものじゃないからだろう。そしてマイナスの感情が、反動でますます気持ちを燃え上がらせる悪循環に陥っている。
 シャンパングラスをもつ指の角度も、そこにくちづける仕草も、スツールに座る姿勢も様になっていて、智晃は来たばかりでありながらすでにバーに馴染んでいる。
 悠花は過去を思い出していたせいで、すぐに初めて会った夜に感じた印象がなんだったのか気づいた。つい目で追ってしまう存在感、それをやわらげる優しげな表情、まとう品のある空気が悠花の意識を奪った。名前と背景を知った今、世田の御曹司だという実感をこんな瞬間にしてしまう。穂高と同じ世界にいる雰囲気をきっとあの夜、感覚的に察知したのかもしれない。
 悠花は苦い感覚がせりあがってきて、カクテルの残りを飲み干した。
「おかわりする?」
「シャンパン……おいしいですか?」
「同じもの頼んであげるよ」
 お願いしますと答えると、智晃は優しい目で悠花を見つめた。悠花も食い入るようにそれを受け止めて見つめ返した。本当はもっと近づきたい、もっと彼との時間を重ねて、いろんなことを知っていきたい。こんな些細な時間にも悠花は欲望が膨らんでいくのを感じる。
「悠花……ここでそんな目をしちゃだめだ」
 禁止の言葉を甘い声がささやいて、カウンターの下で彼の手が伸びて来る。悠花の手を握りしめる手は左手首のブレスレットの存在を確かめた後、妖しげに指をからめてきた。汗ばんだ感触は簡単に情事を思い出させる。
 悠花の前にも同じシャンパングラスが置かれて、小さな泡がきらきらと空へ昇っていく。
「飲み終えたら……僕の部屋に行こう」
 感情の昂ぶりを見抜かれたうえでの提案に、この人は私を甘やかし過ぎだと不意に思った。
「うちでの仕事終えたばかりで、疲れているでしょう?それに……毎週末、結局あなたの時間を拘束している」
「疲れているからだよ。疲れているから悠花に癒されたい。毎週末会っている、じゃないよ。週末にしか会えてない。本当はもっと拘束したいんだ」
 智晃の指がつつっと肌をなぞった。バーにいて人がいることを忘れてしまいそうになる愛撫に、結局どんな思考も消えてしまう。
 他人の話し声も、荘厳なクラッシックの音楽も消えて、世界は二人だけになってしまう。
 ささやかな抵抗など無意味で、どんなに言葉で否定しても、悠花の体はとっくにからめとられている。いっそなんの感情も意志も持たない人形になりたい、そう思った。




 ***




 仕事の忙しさは智晃の思考を停止させた。
 悠花に会いたい気持ちはずっと燻っているけれど、だからこそこんな精神状態で、メールをすることも会う約束をすることもできずにいた。
 会社に居座って資料を漁り、実態調査までしたのだ。大まかでも結果を報告し、ある程度の見通しを提案する必要性があった。今後どういった頻度でこの会社と関わっていくかなども含めて話し合いも重ねて、睡眠時間も削って働かざるを得なかったのだ。どうしても彼女のことだけを考えることはできなかった。
 金曜は片づけと挨拶に追われ、定期的に報告は受けていたとはいえ、週末には数週間留守にした自社の状況も確認したい。ゆっくり会う時間が確保できるのは、もう少し先になる気がして、予定がたたないからと連絡できずにいた。
 けれど一番は……副社長秘書の桧垣に牽制されたせいだ。
 「無理やりにも引き離す」それが叔父の指図なのか、彼自身の意向なのかわからない。ただ叔父が手出ししかねないことと、桧垣がそれを実行するだろうことだけは理解できた。
 「冗談じゃない」というのが智晃の本音だ。第三者の介入などなくとも、彼女との関係はかなり危うい状況だ。ここで手出しされれば、破たんは確実になる。余計な手出しだけはされたくなかった。
 さらに聞かされた、彼女が契約更新しないという事実。それが新たな道を前向きに模索するためのものなら智晃も応援する。けれど桧垣の言うように、自分から離れる準備だとすれば、到底受け入れられるものじゃない。
 なんとかしなければと気持ちは焦っても、具体的な手立てを講じる手段もなければ時間的余裕もなく、日々だけが過ぎていった。
 そんななかで、彼女から久しぶりに来たメールが「バーに行く」というものだった。
 ただ知らせただけなのか、暗に「会いたい」というメッセージが込められているのか、それとも何か彼女なりのけじめをつけるためなのか、いろんな想像が頭を過る。現実として、智晃はこの会社との最後の接待が入っていてバーに行くことはできなさそうだった。
 金曜日の夜に一人きりでバーに行かせる不安もある。友人の店だという安心感もある。たまに飲みたいと思うのであれば、それは彼女の自由であって制限するようなことでもない。
 そう言い聞かせて臨んだ接待には当然叔父の姿もあって、最初は彼の顔をたてる意図もあって付き合っていた。けれど途中からそこに訪れたイレギュラーな存在に、おそらくぷつりと糸が切れた。
 彼女の過去とか、自分の背景が彼女の負担になるかもしれないこととか、桧垣の牽制や、叔父の画策などいろいろ積み重なって、ぐらぐら揺れていた積み木の塔。それが一気に崩れ落ちてしまえば残ったのは、彼女に「会いたい」その気持ちだけになる。
 律儀なバーテンダーから「彼女がいらっしゃいました」というメールがきたのをきっかけに「急な仕事が入ったので失礼します」と中座した。
 だからバーに入った時、自分の顔を見てほっと緩んだ彼女の表情を見たときに、原始的な欲望を素直に開放した。




 ***



 はじまりはいつも余裕があったように思う。彼は強引なところがあるけれど、言葉だけだとしても、いつも悠花に聞いてくれていた。けれど彼の自宅の玄関に入ったところで、壁に背中を押し付けられてキスをされたとき、その性急さが逆に悠花の体に熱を灯した。
 激しく押しつけられた唇が何度も角度を変える。からんだかと思えば舌が離れて、そうして違う方向にからめる。自在になぶられて鼻で息をするのが精いっぱいで、飲み込めない唾液が端から落ちていった。
 背中にまわる腕は痛いほど悠花の体を抱きしめる。悠花もしがみつくように彼の背中に腕をまわした。ぎゅっと抱き合っていると互いがここにいることを感じる。体温もかすかな鼓動も匂いも、すべてがまとわりついて二人だけのものになる。
 どこか酔っているようにも思えるし、ひどく冷静な気もした。
 ただ与えられる感触は雄弁に悠花を求めていると伝えてくる。それが勘違いでも誤解でもないと確信できるほど。思えばこうするとき、いつもそこに誤魔化しや駆け引きは存在しなかった。だから名前も素性も知らなくても信じられる気がした。
 だって、互いに心を預けられる相手を探していたのだから。
「……か……はる、か、好きだ」
 激しいキスの合間に、まるでうわ言のように漏れてくる呟きに眩暈を覚える。呼吸をからめとられ、体を縛られ、言葉が固い殻にヒビをいれる。
「好きだ……悠花」
 閉じ込めていた気持ちが心にあふれてくる。どうしようもなく口をついて出そうになるのに、それを拒むかのようにキスが続く。なにもかもを省いてしまえばシンプルなものしか残らない。バーで会うことをきっかけにして、過ごしてきた二人の夜はいつもこんなふうに甘さに満ちていた。
「私もっ……」
「好きだ」
 離れた瞬間にだけ発する言葉。けれどそれはすぐにふさがれて唾液を交換し合う。気持ちを交換し合って、言葉以外のあらゆる手段を使って伝え合う。
「……きっ、す、き!」
 ようやく発することのできた気持ちは、出口を見つけた途端放出する水のように、あふれてくる。
「好きなの!智晃さんが、好きなの!」
「…………」
 口から言葉が出ると同時に、悠花の目からも水滴が飛び散る。智晃がやっとキスを止めて、じっと悠花を見つめてきた。メガネの奥の目は……いつも優しく穏やかだったそれには、欲と熱が潜む。セックスの時にだけ見せる男の欲情が露わになっていて悠花はすがるように目をあわせた。
「あなたを!苦しめるってわかっているのに!やめたほうがいいって何度も思っているのに!
どんなに否定しても、正解がわかっていても……時間がたって離れてしまえばこの気持ちだって、いつか薄らいでいくことだって知っているのに!」
 穂高しか愛せない、そう思っていた過去。
 彼以上に愛せる人などいるわけがない、そう信じていたかった過去。
 それほどの感情でさえ……時間と距離と新たな出会いが消していくことを立証してきた。
 穂高でない男に惹かれたように、智晃でない男に惹かれる未来はきっとある。
 「終わり」は必ずやってくる。
「好きになって……ごめ……」
「悠花、愛している」
 静かに真摯に智晃の声が響いた。好きになってごめんなさい、その言葉を言い終えることなく、悠花は決して言うことはないと思っていた言葉を口にしていた。
「私も、愛している」
 ふわりと、唇がふれあった。さきほどまで交わしていた激しさが嘘のように、かすかにそっと。
 いつもこんな些細なキスが本当は悠花を引き戻してきた。
 悠花はあふれた涙を押し出すように目を閉じた。唇の表面だけを重ね合わせたキスは、まるで永遠の誓いを思わせるほど長く続く。

2015.12.24
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